2026年3月29日日曜日

11章12~19節 イエスは空腹を覚えられた?

 📖12節

翌日、彼らがベタニアを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。


イエス様も私たちと同じ人間だったのね、と共感できる場所です。

でも、それだけではありません。

🌿これは「神の民に実を求める」イエスの心を表しています。


🌿いちじくには、2種類の実があります。

①初成りの実(パグ)

これは春先、葉が出る頃にできる小さい実です。

②本格的な実(テイナ)

夏に大きく甘い実ができます。

これは本当においしいですよね。


さて、マルコは「いちじく(ティナ)の季節ではなかった」と書いています。

受難週は春ですからティナはありません。

でも初成りの実(パグ)ならあるはずでした。

ところが、葉だけ立派で実(パグ)が「何も見つからなかった」のです。

これは外見は整っていても、内側に霊的な実がないイスラエルの姿を象徴しているのです。


🌿宮きよめ

イエスは神殿の境内で、商売や両替が礼拝を妨げ、人々を搾取する場になっているのを見て、神殿本来の目的が失われていることを厳しく示されました。

これは、神の家を正しい姿に戻すためでした。

イエスはイザヤ書56:7を引用して言われました。

 📖わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれるからだ

ここには三つの大切な意味があります。

① 神殿は「祈りの場」であり、商売の場ではない

祈りとは

神に心を向ける

神の前に静まる

神の恵みを受け取る

そのための時間です。

神殿はそのために存在していました。

② 神殿は「あらゆる民」に開かれている

それなのに神殿での商売を通して、祭司長などが利益を得ていました。

人々は貧しい生活をしていたのに、せっかく持ってきた動物をいけにえとして認めてもらえず、神殿内のお店で買わされていたのです。

これでは、貧しい人々が礼拝をささげることが難しくなります。

③ 神は「祈る者を歓迎する」

祈りは神に近づくための道です。
イエスは、神殿がその役割を果たしていないことを深く悲しまれました。

 📖おまえたちはそれを「強盗の巣」にしてしまった。

これはエレミヤ7:11の引用です。
神殿が不正や搾取の場になっていたことを、預言者の言葉を用いて厳しく指摘されました。


🌿「都の外に出て行く」が暗示していること

📖19節

夕方になると、イエスと弟子たちは都の外に出て行った。

この短い一文には、「霊的な実を期待され、霊的な空腹を覚えておられた」イエスが、期待を裏切られ、都を離れて行かれる深い悲しみが表されているような気がします

①イエスは神殿に「居場所」を持たなかった

神の子が神殿にとどまらず、外へ出て行くということは

神殿が本来の使命を失っていたことを意味します。

②また、イエスは神殿から離れたベタニアに宿泊され、いのちを狙う者たちから逃れておられた。

③イエスの働きの中心は「神殿の外」に移ってゆく

やがて神様の臨在は、建物ではなく、イエスご自身と、その後に生まれる教会へと移ってゆくことを暗示しています。


🌿いま主は どこにおられるでしょう。

教会は祈りの家であり、私たちは神の宮ですが、
私の霊的な状態はどうでしょう。
実を結んでいるのでしょうか。
主は私とともにおられるでしょうか。

考えさせられます。


11章11節 宮の査察

 📖11節

こうしてイエスはエルサレムに着き、宮に入られた。

そしてすべてを見て回った後、

すでに夕方になっていたので、12人と一緒にベタニアに出て行かれた。


エルサレムで群衆がイエスを大歓迎する場面はとても印象的なため、11節はさ~っと読み過ごしてしまいやすいですね。

でも、実はここに大切なメッセージがギュッと詰め込まれているのです。


🌿「すべてを見て回った」

これは観光ではありません。

視察というより、査察に近いです。

以前の礼拝で、

受難週は、人々が過ぎ越しの小羊イエスを審査する期間だとお話しました。

でも、それだけではなく、

逆にイエスが神の側から彼らを査察する時でもあったのです。

どういうことでしょう。


🌿この日、イエスは宮(神殿)の中をくまなく査察します。

祭儀のあり方、

商売の状況、

祭司たちの動き、

人々の霊的な雰囲気など、

本来のあるべき姿からかけ離れた様子をご覧になられて、イエスはどんなに胸を痛めたことでしょう。

しかし、すでに夕方であったのでイエスの一行はベタニアに向かい、憩いの時を過ごします。

宮清めは、翌日に行われます。


🌿つまり宮きよめは

イエスがとっさに怒って暴れたのではありません。

衝動的ではなく、冷静に。

しかし、深い悲しみと憤りも抱きつつ、

査察の結果として裁きを行われたのです。

この時は宮きよめだけでしたが、

37年後に神殿がローマ軍によって破壊されてしまいます。


🌿これは聖書全体に流れるパターンです。

たとえばソドムとゴモラの場合、

①滅ぼす前に査察が行われています。

二人の御使いを派遣し、ロトの家で起きた出来事を通して町の状態を見極めています。

②査察の結果、二つの町に裁きを下すことになります。

(その前にロトと家族は避難します)

そして天から硫黄と火を降らせ、

町だけでなく、

住民も家畜も植物も

徹底的に破壊されました。


他にも①査察 ②その後に裁き、というパターンが歴史の中で繰り返されてゆきます。


🌿私たちが滅び失せなかったのは大いなる憐れみです。

イエスは裁き主であられますが、

私たちの罪と弱さをすべて背負って過ぎ越しの小羊になってくださいました。


🌿今もイエスは私たちをご覧になりますが

裁くためではありません。

愛する者の必要を知り

私たちを助け、守り、支えるために

御父にとりなすために

温かな愛のまなざしを向けてくださいます。

すでに贖いの十字架が立てられたからです。

言葉に言い表せない恵みに、

ただ、ただ、感謝します。


2026年3月27日金曜日

10章46~52節 理想の弟子 バルテマイ

 📖 52節

彼は見えるようになり、道を進むイエスについて行った。


52節に、マルコの福音書全体のテーマが凝縮されています。

これは、単に「癒されたからついて行った」というレベルをはるかに超えています。

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🌿  「道(ὁδός)」はマルコ福音書のキーワード


マルコは「道」という言葉を、イエスが歩む“十字架への道”そのものとして使っています。

8章:弟子たちに「自分の十字架を負って従いなさい」と語る

9章:弟子たちは「道々」で議論し、イエスの道を理解できない

10章:イエスは「先頭に立って道を進む」

そして52節:バルティマイが「道を進むイエスについて行く」

つまり、

「道」=イエスの受難の道、弟子の道、生き方の道

です。

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🌿 バルティマイは“見える弟子”として描かれる


マルコ10章は「見える/見えない」の対比が続きます。

ヤコブとヨハネ:栄光の座を求め、イエスの道が“見えていない”

群衆:バルティマイを黙らせ、イエスの心が“見えていない”

バルティマイ:肉眼は見えないが、イエスを“ダビデの子”と認識し、信仰の目が開いている


そして癒された後、

彼はただちに「道を進むイエスについて行く」。

これは、

「真の弟子とは、イエスの十字架の道を歩む者である」

というマルコの強いメッセージです。

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🌿 11章に続く“受難週”への橋渡し


ここは、11章のエルサレム入城への“前奏曲”のように置かれています。

イエスは十字架へ向かう

そのイエスに、ひとりの“見える弟子”が従う

そして物語は受難週へ突入する


つまり、

バルティマイは「受難の物語の最初の同行者」として描かれています。

弟子たちはまだ理解できていない。

群衆も期待がずれている。


しかし、バルティマイだけが“正しい姿勢”でイエスに従う。

これは読者に対して、

「あなたはどの道を歩むのか」

と静かに問いかけています。

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🌿 あなたも この“道”に加わりますか


バルティマイの姿は、読者に次のように語りかけています。

① イエスの呼びかけに応える者は、誰でも弟子になれる

彼は名もなき盲人、社会の底辺の人

しかし、信仰によって“見える者”となり、弟子の道に加わる

これは読者に希望を与えてくれます


② 弟子とは、理解の深さではなく、イエスに従う姿勢で決まる

彼は神学的理解が深かったわけではない

ただ、イエスを信頼し、呼ばれたらすぐに従った

これがマルコの描く“弟子の本質”


③ イエスの道は、栄光ではなく十字架へ向かう道

バルティマイは、癒しの喜びだけでなく、

イエスの苦難の道にも同行する覚悟を示す

読者にも同じ道が示される


④ 彼は“見える者”として、読者の模範となる

マルコは、弟子たちの失敗を繰り返し描きながら、

最後にバルティマイを“理想の弟子像”として提示する

読者は自然と自分に問われる

「私は見えているだろうか」

「私はこの道を歩むだろうか」


10章42~45節 私たちへのメッセージ

この箇所が私たちに語りかけるメッセージは何でしょう。

 🌿 「怒り」は、ズレのサインである

41節で弟子たちはヤコブとヨハネに怒ります。

しかしその怒りは、

「自分も同じ座を欲しがっていた」

という心のズレを暴きます。

現代でも、

他人の成功にイラッとする

認められた人に嫉妬する

“自分の方が…”と思ってしまう

こうした感情は、

神の国の価値観からズレているサインとして読むことができます。

イエスはそのズレを責めず、呼び寄せて整える方です。

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 🌿  “偉さ”の定義が世界と神の国では真逆である

イエスは言います。

「あなたがたの間では、偉くなりたい者は仕える者になりなさい」

現代社会は

成果

地位

影響力

フォロワー数

能力

こうした“上へ行く力”を評価します。

しかしイエスは、

神の国では“下へ行く力”が偉さを決める

と言われます。

これは現代の読者にとって、

価値観を根底から揺さぶるメッセージです。

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 🌿  仕えることは、弱さではなく“王の道”である

イエスは「仕える者になりなさい」と言うだけでなく、

ご自身がその道を歩まれました。

「人の子は仕えられるためではなく、仕えるために来た」

つまり、

仕えることは卑下ではなく、王の歩む道。

現代の読者にとってこれは、

「損をする生き方」ではなく

「神の国の王の生き方」だと教えます。

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 🌿 “与える愛”こそが人を自由にする

45節のクライマックス:

「多くの人の贖いの代価として自分のいのちを与えるため」

ここでイエスは、

仕えることの究極の形=自己献身を示します。

現代の読者にとっては、

自分を守る

損を避ける

他人に期待しない

自己実現を優先する

こうした価値観が強い時代だからこそ、

イエスの言葉は逆説的に響きます。

与える愛は、奪われる恐れから人を解放する。

仕える心は、自由を生む。

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 🌿 イエスは“仕える者のスピリット”を、今も私たちに呼び戻す

弟子たちがズレたとき、

イエスは怒鳴らず、見捨てず、

呼び寄せて教え直す。

私たちにとっても同じです。

自分中心になってしまう

比較してしまう

評価を求めてしまう

仕える心を失ってしまう

そんなとき、イエスは

「こちらへ来なさい」

と呼び寄せ、

再び“仕える者の心”へと戻してくださる。

なんて優しい羊飼いなのでしょう。


10章42節 弟子たちを呼び寄せるイエス

 📖42節

そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。


「呼び寄せて」この動作は、マルコ10章全体の流れを貫く“イエスの姿勢”を表しています。


🌿 マルコ10章は“距離の物語”

イエスと人々の「距離」が何度も描かれます。

子どもたちを近づけまいとする弟子たち

イエスから離れていく金持ちの青年

イエスの思いからずれていく弟子たち

群衆がイエスについて行くが、恐れを抱いている

その中で、イエスは一貫して

人を自分のもとへ引き寄せる方

として描かれます。

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🌟 弟子たちの“ずれ”を、イエスが“呼び寄せて”整えます

10章の弟子たちは、イエスの思いと何度もズレます。

子どもを退ける(10:13)

金持ちの青年の件で驚き、理解できない(10:24–26)

ヤコブとヨハネが栄光の座を求める(10:35–37)

他の弟子たちは怒り出す(10:41)

つまり、弟子たちは

イエスの心から離れた場所に立ってしまっている。

そこで

イエスは彼らを呼び寄せて言われます。

これは単なる「集まれ」ではなく、

間違った方向に走り出した弟子たちを

正しい方向に引き戻しているのです。

これも羊飼いの姿ですね。

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🌿 10章のテーマは「神の国の価値観」

子どもが受け入れられる(10:15)

富ではなく、神に信頼する(10:23–27)

偉くなりたいなら仕える者に(10:43–44)

人の子は仕えられるためでなく仕えるために来た(10:45)

しかし、弟子たちはを理解できず、

世の価値観(権力・地位・成功)に引っ張られていました。

そこでイエスは彼らを呼び寄せ、

神の国の王が「権力や支配」ではなく、

「愛と信頼」で仕える姿を示されました。

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🌼 マルコ10章のクライマックスは“呼び寄せる王”の姿

10章の最後は盲人バルティマイの物語(10:46–52)。

ここでもイエスは同じ姿勢を示します。

バルティマイが叫ぶ

群衆は黙らせようとする

しかしイエスは言う 

「彼を呼んで来なさい」

ここでも「呼ぶ(φωνέω)」が使われ、

イエスの“招く王”としての姿が強調されます。

つまり10章は、

イエスは、弱い者・迷う者・誤解する者を、何度でも呼び寄せる方である

という一貫したメッセージで貫かれています。

2026年3月26日木曜日

10章32~40節 先頭に立つイエス

 今回はアラム語のニュアンスで読んで、考えさせられたことをご紹介します。

📖32節  

さて、一行はエルサレムに上る途上にあった。

イエスは弟子たちの先に立って行かれた。

弟子たちは驚き、ついて行く人たちは恐れを覚えた。


🌿「先に立って」

これは、羊飼いが羊を導くイメージです。

ただ「先頭を歩く」のではなく、  

“羊飼いが危険を先に受ける覚悟で

群れを導く” 

というニュアンスが強いです。

弟子たちが「驚き」「恐れた」のも、  

イエスの歩みに“死に向かう決意の重さ”が

漂っていたからです。


🌿私たちの羊飼いであるイエス

羊飼いは、

狼が来るとき、谷を下るとき、  

夜道を歩くとき、  

必ず自分が先頭に立ち、

群れを守るために危険を先に受けます。

イエスがエルサレムへ向かうときの姿勢は、まさにその姿です。


🌿弟子たちが驚き、恐れた理由  

弟子たちは、先生が何をしにエルサレムへ行くのかを薄々感じていました。  

「先生が死に向かって歩いている」

「その道に自分たちも巻き込まれる」

不安と恐れで弟子たちの心は重苦しくなっていました。


しかしイエスは、  

その恐れを知りながら、なお先頭に立って歩まれました。

ここに深いメッセージがあります。


🌿あなたの前にも、私は立っている。

イエスは、私たちが向き合う

不安 、恐れ、痛み 、失敗  、孤独  

そのすべての前に、

先に立ってくださる方です。


🌿あなたが恐れている道を、私はすでに通った。

十字架の道は、
  
人間が最も恐れる“拒絶・孤独・痛み・死”の象徴です。

イエスはそのすべてを先に受け、
  
「あなたは一人でそこを通らなくていい」
  
と語っておられます。


🌿 あなたを守るために、私は前に立つ。

羊飼いは、
  
群れのために自分の命を差し出す覚悟で前に立ちます。

イエスの先頭に立つ姿は、
 
“あなたを守るために、私は危険を先に受ける”という愛の表現です。


🌿 あなたは、ただ私の後ろを歩けばいい

イエスは弟子たちに、
  
「自分で道を切り開け」とは言いませんでした。

むしろ、

私が前に立つ 

あなたは私の足跡を踏んで歩けばいい  

私があなたを導く  

という優しい招きです。


🌿私たちは、イエスの後ろについてゆきます。

35節からヤコブとヨハネのお願いが紹介されています。

この箇所は、「イエスの後ろを歩む者」へ何を語りかけているでしょうか。


🟦 イエスの後ろを歩むとは、“栄光の道”ではなく“十字架の道”

イエスは先頭で十字架に向かい、
  
弟子たちはその後ろを歩きます。

従う者もまた、  

自分の十字架を負うことになります。


🟦 しかし、その十字架は“孤独な十字架”ではない 

イエスが先に歩んでくださるので、
  
私たちの十字架は

見捨てられた十字架ではない

無意味な苦しみでもない  

イエスが共に負ってくださる


🟦  十字架の道の先には、父が備えた“座”がある  

イエスは弟子たちの願いを否定しませんでした。

「あなたがたは杯を飲む」と苦難を予告しつつ、「座は父が備えた者に与えられる」と報いを示します。

つまり、

十字架の道は、栄光の道につながっている。
  
しかし栄光は、自分で奪うものではなく、神が備えてくださるものです。

10章24~31節 弟子たちの驚き

 今回の箇所は、私たちの価値観が大逆転するような内容になっています。

当時の話し言葉であったアラム語のニュアンスを汲み取って読んでゆくと、この場面の弟子たちの大きな驚き、そしてイエス様の温かな語り口が立体的に浮かび上がってきます。


📖24節

弟子たちはイエスのことばに驚いた。


🌿「驚いた」(テタワル)

これは単なる「びっくり」ではありません。

弟子たちは

心が揺さぶられ、理解が追いつかず、

恐れを含んだ動揺に包まれました。


弟子たちは、

「富=神の祝福」という当時の常識で育っているので、

イエスの言葉は世界観の崩壊に近い衝撃でした。

しかしイエスは彼らに優しく呼びかけます。

📖24節

「子たちよ。」(bney)

これは、非常に親密で、慰めを含んだ語。

まるで子どもを抱き寄せて

「怖がらなくていい、私のそばにいなさい」

とやさしく語りかけるような口調で彼らを安心させます。


📖25節

金持ちが神の国に入るよりは、ラクダが針の穴を通る方が易しいのです。


針の穴は、極端に小さな穴。

ラクダは、最大級の動物

つまり、絶対に不可能。

「富を頼りに神の国に入ることは、絶対に不可能だ」

問題は富そのものではなく、
富に頼る心。

🌿私たちも、
お金・能力・人間関係・健康・実績など
自分を支えてくれそうなものに寄りかかりたくなります。

しかしイエスは、
「そこに救いの入口はない」
と優しく、しかしはっきり教えます。


📖26節

弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。

「それでは、だれが救われることができるでしょう。」


弟子たちは、さらに深く動揺して嘆きます。

誰が救われるのか?

誰にも無理ではないか

という絶望に近い問いを投げています。

そんな彼らにイエスはこう答えます。

📖27節

それは人にはできないことです。

しかし、神は違います。

神にはどんなこともできるのです。


アラム語のニュアンスは、
人間の力では不可能。しかし神の力は境界を超える
強烈な対比です。

特に
可能である(shakh
a
は「力が働く」「道が開く」という希望をもたらす動きのある表現です。

つまりイエスは、
神は不可能を突破する方だ
と宣言しているのです。

勇気が湧いてくる言葉ですね。


📖28節

「ご覧ください。

私たちはすべてを捨てて、

あなたに従ってきました。」

アラム語のニュアンスは
私たちは(確かに)捨てたのです

「本当に全部捨てたんです

ペテロは
「私たちの犠牲は無駄ではないですよね」
と不安を吐露しています。

イエスはその不安に応えます。

📖29–30節

まことに、あなたがたに言います。

わたしのために、また福音のために、

家、兄弟…畑を捨てた者は、今この世で、

迫害とともに、家、兄弟…、畑を百倍受け、

来たるべき世で永遠のいのちを受けます。


🌿この訳は、一見すると、

「地上で100倍の家・家族・畑を受ける」

と読めてしまうのですが、

文脈と当時の言語感覚を丁寧に追うと、

物質的な資産が100倍になるという

約束ではないことがはっきりしてきます。

しかし、原文のニュアンスはもっと広く、

「神の家族の中で、

あなたが失ったものを補って余りあるほど

の関係と支えが与えられる」

という意味です。


🌿「百倍」は
神の圧倒的な祝福を象徴しています。

しかし同時に
「迫害とともに」が重く響きます。

神の国の祝福は、
苦難と切り離せない現実の中で与えられる
という真実がここにあります。


📖31節

しかし、先にいる多くの者が後になり、

後にいる多くの者が先になります。


🌿これは

神の国では価値基準が根本からひっくり返るという宣言。

アラム語の響きは、
神の国の秩序は、地上の秩序とはまったく別物だという強烈なメッセージを帯びています。


富・地位・成功・評価——
地上で重視されるものは、
神の国では決定的な価値を持ちません。

神の国では、
へりくだる者、手ぶらの者、
神に寄りかかる者が先になるのです。


🌿まとめ

私たちの持ち物が問題ではなく、

私たちが「誰に頼って生きるのか」、

私たちの心の姿勢が問われます。

イエス様は私たちの不安や恐れに寄り添いながら、神の国の新しい価値観へと優しく導いてくださいます。

10章23節 イエスの目線

 📖23節

イエスは周囲を見回して、弟子たちに言われた。

つい読み過ごしてしまいますが、「見回して」という表現は、イエスの心の動きや場の空気を表す大切な描写です。


 🌿なぜイエスは「周囲を見回した」のでしょう。

1. 弟子たちの反応を確認するため

金持ちの青年が去っていった直後、弟子たちは沈黙していたはずです。
イエスはその沈黙の中で、弟子たちの表情・理解度・動揺を確かめるように見回した、と読むことができます。

弟子たちは「財産を捨てる」ことの意味をまだ理解していませんでした。
イエスはその様子を見つめ、そこから語り始めます。


2. 青年の背中を見送りつつ、弟子たちに問いかけるため

青年は「悲しみながら立ち去」りました。
イエスはその背中を見つめた後、弟子たちに視線を移すのです。

つまり、
「彼だけの問題ではない。あなたたちも同じ問いの前に立っている」

というメッセージが視線の動きに込められています。


3. 弟子たちに自分の立場を自覚させるため

青年は財産に縛られて去っていきました。
弟子たちは財産を捨てて従っているはずですが、
心の奥では「報い」や「地位」を求めていました(10:35–45)。

イエスはその心を見抜いて、
「あなたたちはどうなのか」
と静かに問いかけるように見回したのです。

これは言葉以上に強いメッセージです。


10章17~22節 裕福な青年に対する神の愛の炎

 このお話は誤解されやすい箇所かもしれません。

裕福な青年とイエス様とのやりとりを通して、聖書が何を私たちに伝えようとしているのか丁寧に見てゆきます。

📖17節

イエスが道に出て行かれると、一人の人が駆け寄り、御前にひざまずいて尋ねた。


🌿「駆け寄り」と訳されている語は、全力で走る”ニュアンスで、切迫感や真剣さがこめられています。

これは、抑えきれない衝動に突き動かされている姿です。

  • 何かに追われている
  • 今すぐ答えが欲しい
  • 心の奥で不安が膨らんでいる

こうした切迫感が伝わってきます。


🌿「ひざまずいて」は、崩れ落ちるように膝をつくイメージです。

彼の心が不安と重荷に耐えられず、すでに限界だったことを示しています。

・律法を守ってきたのに、何かが足りないのでは?

・自分の努力では届かないという焦り

・「永遠の命」に対する確信がない

イエスが今ここにいる、この瞬間を逃したらもう聞けない

・いますぐ答えが欲しい

これらの恐れと焦りが、彼を走らせ、ひざまずかせたのでしょう。


📖17節・18節

「良い先生。永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいでしょうか。」

イエスは彼に言われた。

「なぜ、わたしを『良い』と言うのですか。

良い方は神おひとりのほか、だれもいません。」


🌿このやり取りはどういう意味?と思いますね。

「良い」と訳されている語は、神様だけが持っておられる「完全で絶対的な善」のイメージの言葉です。

この言葉を彼が軽く使っているので、

「あなたは私を”絶対的な善”と呼んでいるのですか?

完全に良い方は神だけですよね?

あなたは私を本当に神であると考えているのですか?」と問い直しておられるのです。

🌿次に、イエス様が聖書の戒めを守ることについて触れると、彼は自分が少年の頃から全て守ってきたと答えます。

そして彼を見つめ、いつくしんで言われたのが21節の言葉です。

「あなたに欠けていることが一つあります。

帰って、あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。

そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。

そのうえで、わたしに従って来なさい。」


🍀これは耳を疑ってしまうような言葉ですね。

財産をすべて売り払うなんて、なんと厳しいことを要求されるのだろう、と思ってしまいます。

でも、これは全ての人に求めておられることではありません。

財産を持つことが悪いことでもありません。


🍀では、なぜイエス様は彼にこのようなことをおっしゃったのでしょう。

問題は、「財産が神より大切になってしまうこと」です。

青年にとって財産は、神より大きな偶像になっていたのです。

青年は律法を守り、道徳的にも立派でした。
しかし、イエスが「あなたの持ち物を売り払いなさい」と言われたとき、

「彼は悲しみながら去った」(22節)のです。

これは、
彼の心の中心に財産があったことを示しています。


🍀イエス様は彼の心の最も深い部分を見抜き、「あなたの偶像を手放しなさい」と促されたのです。

イエス様はすべての人に同じことを要求していません。

「あなたの心を支配しているものを、神より上に置かないでほしい」

とおっしゃっているのです。


🍀永遠のいのちは「行い」で買えるものではありません。

青年は「何をすれば永遠のいのちを得られますか」と尋ねましたが、

  • 良い行い
  • 財産の量
  • 犠牲の大きさ

で得られるものではありません。

永遠のいのちは神との関係から始まります。

神を第一にする心から始まります。

だから「それを妨げているものを手放しなさい」

と教えているのです。


🍀では、私たちにが手放すべきものは何でしょう。

必ずしもお金とは限りません。

  • 評価されたい気持ち
  • プライド
  • コントロールしたい思い…など

イエス様は、人それぞれに、
「あなたの心を支配しているものを手放して、私に従ってきなさい」
と招かれます。


🍀このお話を読んで雅歌8:6を思い出しました。

愛は…強く、ねたみは黄泉のように激しいからです。

その炎は…すさまじい。

大水もその愛を消すことができません。


神様の私たちへの愛が、激しく燃え上がる妬みの炎にたとえられています。

旧約聖書では、神様がイスラエルを「妻」と呼んでおられ(ホセア書 エゼキエル16章)、

新約聖書では、キリストが教会を「花嫁」と呼んでいます(エペソ5章、黙示録19章)。

神様は私たちを「独占したい」と願うほど、深く激しく愛しておられるのです。


🍀だからイエス様は青年に呼びかけておられます。

「あなたの心を奪っているものを手放して、
私と本当に結ばれてほしい」

花婿のような愛の呼びかけです。

青年にとって財産は、
神との関係を妨げる“別の恋人”のような存在でした。

イエス様は、

嫉妬のような深く強烈な愛で、彼を本気で招いたのです。


🍀ただし、イエス様は私たちの自由を尊重されます。

青年が「悲しみながら去った」時、

イエス様は追いかけて無理に引き止めることはなさいません。

私たちは、花婿イエス様の愛の招きにどうこたえるのでしょう。

自分の手が握っているものを手放して、イエス様の愛の中に飛び込んで行けるのか、探られます。

10章13節~16節 神の国の価値観

📖13節

さて、イエスに触れていただこうと、人々が子どもたちを連れて来た。ところが弟子たちは彼らを叱った。イエスはそれを見て、憤って弟子たちに言われた。

ここはイエスの心の深さが一気にあらわになる場面ですね。

あの時代の文化背景を考えると、弟子たちが子どもを「場違い」と感じたのは自然なことでした。

ここでは、弟子たちの常識と、イエスの神の国の価値観が正面からぶつかります。

🌿当時のユダヤ社会では、

  • 子どもは「未熟」「社会的価値が低い存在」
  • 大人の集まりに子どもが入るのは普通ではない
  • ラビ(教師)のもとに子どもを連れていくのは迷惑と見なされることもありました

弟子たちは、
「イエスさまは忙しいんだから、子どもなんか連れてくるな」
という善意のつもりで叱ったのでしょう。

🌿ところが、イエス様は弟子たちの態度に「憤って」おられます。

強い口調でおっしゃいます。

📖14ー16節

「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。

邪魔してはいけません。

神の国はこのような者たちのものなのです。

まことに、あなたがたに言います。

子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」

そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。


🌿イエス様が言いたかったのは、

  • 子どもは価値が低い存在ではない
  • 神の国は、素直に信じて受け入れる者が入る所
  • 自分の力や努力で入る所ではない

この場面には、イエス様を試そうとする人々がいました。

そこに「イエスに触れていただこう」と純粋な願いで近づく人々が登場したのです。

そんな人々を叱るなんて、とんでもない。

イエス様の憤りは、私たちの信じる心をどれほど喜んでおられるか表しています。


🌿ところで、人々はなぜ「触れていただこう」と子どもたちを連れてきたのでしょう。

🍀1. 触れることは「祝福」を授けること

ユダヤの伝統では、
「手を置く」「触れる」=祝福を授ける行為
でした。

  • アブラハム、イサク、ヤコブが子どもに手を置いて祝福した
  • 祭司が民に祝福を宣言するときに手を上げる
  • ラビが子どもに祝福を与える習慣があった

つまり、
「触れていただく」=神の祝福を受けること
を意味します。

親たちは、
「この方の祝福を子どもに与えてほしい」
という純粋な願いで来たのです。


🍀触れることは「癒す」こと

📖マラキ書4章2節にこう書いてあります。

しかしあなたがた、わたしの名を恐れる者には、義の太陽が昇る。その翼に癒やしがある。


翼と訳されている語は、翼だけではなく「衣服の隅」も意味しています。

これは、やがて来られるメシヤ(キリスト)の衣に触れば、癒されるという信仰をユダヤ人に与えました。

それで病を抱えている人々がイエスに触ろうとした様子を、マルコは折々に福音書の中で描いています。


ここに登場する親たちも

「この方に触れていただければ、子どもは守られ、癒され、祝福される」
と信じていたのでしょう。


🍀触れることは愛の表現

握手であれ、ハグであれ、頭をなでてもらうことであれ、触れることで自分が相手に

*あなたを歓迎します

*あなたは私にとって大切な存在です

という愛のメッセージを送るサインです。

🌿イエス様は、最もはっきりと愛情と歓迎の気持ちが伝わる方法を使って子どもたちに触れてくださいました。

子どもを抱き、手を置き、祝福したのです。

私たちが求めるなら、イエス様は私たちに分かる形で触れてくださるのです。

聖書を読んで、あなたの心が温かくなっているなら、まさにイエス様があなたの心に触れておられるのでしょうね。




4/26(日)16章1~8節 問題の石の先にある備え

 🌿心配する前に、神はすでに備えておられる   イエスの墓へ向かった三人の女性たちは、道すがらこう話していました。 「誰があの石を転がしてくれるのでしょう」 彼女たちにとって、石はどうにもならない大きな問題でした。   しかし、墓に着いてみると――   その石はすでに転がされて...