📖13節
さて、イエスに触れていただこうと、人々が子どもたちを連れて来た。ところが弟子たちは彼らを叱った。イエスはそれを見て、憤って弟子たちに言われた。
ここはイエスの心の深さが一気にあらわになる場面ですね。
あの時代の文化背景を考えると、弟子たちが子どもを「場違い」と感じたのは自然なことでした。
ここでは、弟子たちの“常識”と、イエスの“神の国の価値観”が正面からぶつかります。
🌿当時のユダヤ社会では、
- 子どもは「未熟」「社会的価値が低い存在」
- 大人の集まりに子どもが入るのは普通ではない
- ラビ(教師)のもとに子どもを連れていくのは“迷惑”と見なされることもありました
弟子たちは、
「イエスさまは忙しいんだから、子どもなんか連れてくるな」
という“善意のつもり”で叱ったのでしょう。
🌿ところが、イエス様は弟子たちの態度に「憤って」おられます。
強い口調でおっしゃいます。
📖14ー16節
「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。
邪魔してはいけません。
神の国はこのような者たちのものなのです。
まことに、あなたがたに言います。
子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」
そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。
🌿イエス様が言いたかったのは、
- 子どもは“価値が低い存在”ではない
- 神の国は、素直に信じて受け入れる者が入る所
- 自分の力や努力で入る所ではない
この場面には、イエス様を試そうとする人々がいました。
そこに「イエスに触れていただこう」と純粋な願いで近づく人々が登場したのです。
そんな人々を叱るなんて、とんでもない。
イエス様の憤りは、私たちの信じる心をどれほど喜んでおられるか表しています。
🌿ところで、人々はなぜ「触れていただこう」と子どもたちを連れてきたのでしょう。
🍀1. 触れることは「祝福」を授けること
ユダヤの伝統では、
「手を置く」「触れる」=祝福を授ける行為
でした。
- アブラハム、イサク、ヤコブが子どもに手を置いて祝福した
- 祭司が民に祝福を宣言するときに手を上げる
- ラビが子どもに祝福を与える習慣があった
つまり、
「触れていただく」=神の祝福を受けること
を意味します。
親たちは、
「この方の祝福を子どもに与えてほしい」
という純粋な願いで来たのです。
🍀触れることは「癒す」こと
📖マラキ書4章2節にこう書いてあります。
しかしあなたがた、わたしの名を恐れる者には、義の太陽が昇る。その翼に癒やしがある。
翼と訳されている語は、翼だけではなく「衣服の隅」も意味しています。
これは、やがて来られるメシヤ(キリスト)の衣に触れば、癒されるという信仰をユダヤ人に与えました。
それで病を抱えている人々がイエスに触ろうとした様子を、マルコは折々に福音書の中で描いています。
ここに登場する親たちも
「この方に触れていただければ、子どもは守られ、癒され、祝福される」
と信じていたのでしょう。
🍀触れることは愛の表現
握手であれ、ハグであれ、頭をなでてもらうことであれ、触れることで自分が相手に
*あなたを歓迎します
*あなたは私にとって大切な存在です
という愛のメッセージを送るサインです。
🌿イエス様は、最もはっきりと愛情と歓迎の気持ちが伝わる方法を使って子どもたちに触れてくださいました。
子どもを抱き、手を置き、祝福したのです。
私たちが求めるなら、イエス様は私たちに分かる形で触れてくださるのです。
聖書を読んで、あなたの心が温かくなっているなら、まさにイエス様があなたの心に触れておられるのでしょうね。
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