ゲツセマネでの出来事は、
イエスさまがとても深い孤独と痛みを通られた時でした。
その場面を、イエスさまの心に寄り添いながら、
ゆっくりたどってみたいと思います。
🌿「すぐ」という言葉に込められた二つの思い
マルコはこの場面で「すぐ」という言葉を二回使います。
でも、その二つは同じようでいて、まったく違う響きを持っています。
📖43節の「すぐ」
イエスさまが祈り終え、弟子たちに語っておられるその時、
“すぐ”ユダがやって来ました。
ここでの「すぐ」は、
神さまの時が動き出したという、重い響きを持っています。
イエスさまは、
「いよいよ、この時が来たのだ」と、
静かに受け止めておられたことでしょう。
📖45節の「すぐ」
ユダはイエスさまのところへ、
ためらうことなく“すぐ”近づきました。
こちらの「すぐ」は、
ユダの心がもう決まってしまっている冷たさを表しています。
迷いも、ためらいも見せず、
しかも“接吻”という親しさのしるしを裏切りの合図に使う。
イエスさまの心には、深い痛みが走ったことでしょう。
🌿強盗ですか?
📖48節
まるで強盗にでも向かうように、
剣や棒を持ってわたしを捕えに来たのですか。
この言葉には、
イエスさまの静かな悲しみがにじんでいます。
● 「私はそんな者ではないのに」
イエスさまは暴力をふるう人ではありません。
人を傷つけたこともありません。
それなのに、
まるで危険な人のように扱われてしまう。
イエスさまは、
「なぜ、こんなふうに恐れられるのだろう」
そんな寂しさを感じておられたでしょう。
● 「私はいつも、あなたがたの前にいたのに」
イエスさまは毎日、宮で語っておられました。
隠れたことは一度もありません。
「あなたがたは、私の言葉を聞く機会がいくらでもあったのに」
理解されなかった者の、静かな痛みがここにあります。
● それでも、責めない
イエスさまは最後に、
「聖書は成就しなければならない」と言われます。
これは、
相手を責める言葉ではなく、
神さまの御心を受け入れる言葉です。
誤解されても、裏切られても、
イエスさまは愛を手放しませんでした。
🌿この場面が、私たちにそっと語りかけること
イエスさまは、
裏切られる痛み、
誤解されるつらさ、
ひとりぼっちになる寂しさ――
私たちが経験する深い痛みを、すべて通られました。
だからこそ、この場面は静かに語りかけます。
あなたの孤独を、私は知っています。
あなたが見捨てられたと感じる時も
誤解された悲しみも。
私はあなたを決して見捨てません。
十字架に向かわれる前に
私たちの孤独と悲しみと痛みを
すべて背負ってくださったのです。
茨の冠と釘と槍だけではなく、
人々の誤解が
イエスさまの心を出血させたから。
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