2026年4月16日木曜日

4/17(金)14章43~50節 イエスの孤独と痛み

 ゲツセマネでの出来事は、  

イエスさまがとても深い孤独と痛みを通られた時でした。  

その場面を、イエスさまの心に寄り添いながら、  

ゆっくりたどってみたいと思います。


🌿「すぐ」という言葉に込められた二つの思い


マルコはこの場面で「すぐ」という言葉を二回使います。  

でも、その二つは同じようでいて、まったく違う響きを持っています。


📖43節の「すぐ」  

イエスさまが祈り終え、弟子たちに語っておられるその時、  

“すぐ”ユダがやって来ました。


ここでの「すぐ」は、  

神さまの時が動き出したという、重い響きを持っています。


イエスさまは、  

「いよいよ、この時が来たのだ」と、  

静かに受け止めておられたことでしょう。


📖45節の「すぐ」  

ユダはイエスさまのところへ、  

ためらうことなく“すぐ”近づきました。


こちらの「すぐ」は、  

ユダの心がもう決まってしまっている冷たさを表しています。


迷いも、ためらいも見せず、  

しかも“接吻”という親しさのしるしを裏切りの合図に使う。  

イエスさまの心には、深い痛みが走ったことでしょう。


🌿強盗ですか?

📖48節

まるで強盗にでも向かうように、

剣や棒を持ってわたしを捕えに来たのですか。


この言葉には、  

イエスさまの静かな悲しみがにじんでいます。


● 「私はそんな者ではないのに」  

イエスさまは暴力をふるう人ではありません。  

人を傷つけたこともありません。

それなのに、  

まるで危険な人のように扱われてしまう。


イエスさまは、  

「なぜ、こんなふうに恐れられるのだろう」  

そんな寂しさを感じておられたでしょう。


● 「私はいつも、あなたがたの前にいたのに」  

イエスさまは毎日、宮で語っておられました。  

隠れたことは一度もありません。


「あなたがたは、私の言葉を聞く機会がいくらでもあったのに」  

理解されなかった者の、静かな痛みがここにあります。


 ● それでも、責めない  

イエスさまは最後に、  

「聖書は成就しなければならない」と言われます。


これは、  

相手を責める言葉ではなく、  

神さまの御心を受け入れる言葉です。


誤解されても、裏切られても、  

イエスさまは愛を手放しませんでした。


🌿この場面が、私たちにそっと語りかけること


イエスさまは、  

裏切られる痛み、  

誤解されるつらさ、  

ひとりぼっちになる寂しさ――  

私たちが経験する深い痛みを、すべて通られました。


だからこそ、この場面は静かに語りかけます。


あなたの孤独を、私は知っています。  

あなたが見捨てられたと感じる時も

誤解された悲しみも。

私はあなたを決して見捨てません。


十字架に向かわれる前に

私たちの孤独と悲しみと痛みを

すべて背負ってくださったのです。


茨の冠と釘と槍だけではなく、

人々の誤解が

イエスさまの心を出血させたから。

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