この箇所は、強い言葉が連続していますのでさ~っと読み過ごしてしまいたくなる誘惑にかられます。
でも、とても大事なメッセージですので丁寧に深読みしてゆきます。
📖42節
「また、わたしを信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、
むしろ、大きな石臼を首に結び付けられて、
海に投げ込まれてしまうほうがよいのです。」
これは新改訳2017の訳ですが、
42節をイエス様が実際に話しておられたアラム語のニュアンスに近づけて訳すと、
深くて温かい響きになります。
「わたしを信頼し始めた、
この小さく弱い者たちの一人を、
つまずかせ、心を折って、
神のいのちから遠ざけるようなことをする者は、
重いひき臼を首にかけられて海に沈む方が、
まだましです。」
🌱「小さい者たち」とは”弱い立場にいる人”を指す言葉です。
当時の社会では、弱者は簡単に無視され、踏みにじられていました。
イエス様は、その現実に対して、あえて極端な比喩を使って教えておられます。
📖「重いひき臼を首にかけられて海に沈む方が、まだましです。」
これは「実際にそうしろ」という命令ではなく、
「弱い者を傷つけることは、神の国の価値観に真っ向から反することだ」
「臼を首にかけられて海に沈む…、それほど重大なことだよ」
と比喩を使って教えているのです。
と比喩を使って教えているのです。
イエス様は弱い者の味方であり、彼らを守るためにあえて強い言葉をお使いになるのです。
📖43節
「もし、あなたの手があなたをつまずかせるなら、それを切り捨てなさい。両手がそろっていて、ゲヘナに、その消えない火の中に落ちるより、片手でいのちに入るほうがよいのです。」
「いのちに入る」という言葉が45節にも使われています。
繰り返されているので大事な意味があることは分かりますが、
繰り返されているので大事な意味があることは分かりますが、
「いのちに入る」と言われても、
なんとなく漠然としたイメージでピンときません。
どういう意味でしょう。
どういう意味でしょう。
🌱アラム語では「いのち」は
- 神の臨在
- 神の祝福
- 神の支配の中での平安
- 神との関係の回復
- 神の国の現実に包まれること です。
🌿アラム語で「入る」という語は
- ある領域に“踏み入る”
- 新しい状態に“移行する”
- ある現実の中に“包まれる”
という意味を持ちます。
つまり
*神の支配の現実の中に入る
*神の祝福の領域に踏み入る
*神との交わりの中で生きる
*神の国のいのちに包まれる
これで少しイメージをつかみやすくなりましたね。
◆ところで、43節~47節では手・足・目を切り捨てるという強烈な表現が使われています。
もちろん、これは誇張表現です。
決して、この通りに切断しなさいと命じているのではありません。
✋手 は 行動の象徴 。
つまり「罪を生む行動を放置するな」。
🦶足 は 進む方向を意味しています。
つまり「誤った方向へ導く習慣を断ち切れ」。
👁目 は 欲望・価値観・判断 の象徴。
つまり「心の中の歪んだ欲望を見過ごすな」というメッセージです。
罪を軽く扱うことが、結局は自分自身と周囲の人を破壊することにつながるのです。
9章の後半の文脈では
*弟子たちの優越意識
*排他的態度
*弱い者を軽んじる姿勢
が問題になっています。
つまり「その態度を捨てなさい」という呼びかけです。
📖48節
「ゲヘナでは、彼らを食らう うじ虫が尽きることがなく、火も消えることがありません。」
これはイザヤ66章24節の引用です。
神に背を向け続ける生き方の結末がどうなるかを教えます。
ゲヘナは実在した場所ですが、
ここでは、永遠の刑罰の場所「地獄」を指しています。
📖50節の「塩気」に関する解説は、こちらから。
ゲヘナは実在した場所ですが、
ここでは、永遠の刑罰の場所「地獄」を指しています。
最後の審判の後に、キリストを拒んだ者が永遠に過ごす場所です。
でも、これは私たちを怖がらせるためではありません。
神の祝福と交わりを永遠に楽しむため、神の国の価値観を知るための「愛の警告」です。
📖50節の「塩気」に関する解説は、こちらから。
※ゲヘナに関する詳しい説明を読みたい方は、こちらから。
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