イエスが十字架につけられていた正午から午後3時まで、聖書は「全地が暗くなった」と語ります。
まるで世界そのものが息をひそめ、深い闇に包まれたような時間でした。
この闇は、ただの天気ではありません。
イエスが人間の罪を背負い、“神との交わりを失う孤独”を経験しておられたことを示しています。
🌿イエスの叫び ― 「わが神、どうして…」
午後3時、イエスは大声で叫ばれました。
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
📖これは、詩篇22篇の言葉です。
イエスは、罪を負う者として、御父のぬくもりを感じられない痛みの中におられました。
これまで兵士や群衆から嘲られ、弟子たちにも見捨てられ、
そしてついに御父の慰めさえ届かないように感じる孤独へと追い込まれます。
イエスがゲッセマネで血の汗を流して祈られたのも、
ただ十字架の痛みを恐れたからではありません。
御父との深い交わりが一時的に遮られることを、
何よりも恐れておられたのです。
🌿幕が裂けた ― 神が開いてくださった道
イエスが息を引き取られた瞬間、神殿の幕が上から下まで裂けました。
この幕は、
「神は聖なるお方、人は罪ある者」という隔たりを象徴していました。
しかしその幕が、
人間の手ではなく、神の側から裂かれたのです。
イエスが孤独の闇を通り抜けてくださったことで、
私たちが神に近づく道が開かれました。
イエスが経験された「神の不在」は、
私たちが「神の臨在」に入るための道となったのです。
🌿 闇の中で叫ばれた愛
マルコ15章は、
イエスの深い孤独と叫びを描きながら、
最後に神の愛の勝利を示します。
- イエスは、罪の重さの中で御父の慰めを失われた
- その孤独の代価によって、私たちは神に近づけるようになった
- 幕は裂かれ、神への道は開かれた
イエスが闇の中で叫ばれた言葉は、
絶望ではなく、
私たちを神へと導くための愛の叫びでした。
🌿慌ただしい日常の中に開かれる道
十字架という壮絶なお苦しみを通してイエスさまが開いてくださった「神様との交わりの道」なのに、
つい忙しさに振りまわされて神様との交わりを疎かにしてしまう弱さがあります。
家事 仕事 人間関係 体調 心の疲れ
いろいろなものに押されて、神様との時間が後回しになってしまうことがあります。
でも、それは「信仰が弱いから」ではなく、
人間としての限界を抱えて生きているからなんです。
聖書の登場人物たちも
みんな忙しさや不安の中で神様を見失いそうになりました。
それでも神様は、
「どうして祈らなかったのか」と責める方ではなく、
「気づいた時に戻ってきなさい」と招く方です。
気づいた瞬間に、短くても祈る。
これは本当に良いことです。
むしろ、神様はそのような祈りを喜ばれます。
- 洗濯物を干しながら
- 料理の途中でふと
- 移動中に心の中で
- 夜、疲れて横になりながら
その一瞬の「神様…」というささやきは、
神様にとっては大きな喜びです。
神様は、
“長い祈り”よりも“戻ってきた心”を喜ばれる方だからです。
イエスが十字架で孤独の闇を通られ、
幕を裂いてくださったのは、
「もっと祈れ」と私たちを追い立てるためではありません。
いつでも、どんな状態でも、
神様のもとに帰ってこられるようにするためです。
だから、
「最近祈れていない…」と気づいた瞬間は、
神様がそっと呼んでおられる時なんです。
短い祈りが、
私たちを神様の光の中にある交わりへ戻す力になります。
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